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地球の迷子たちへ

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第一章 足跡

三月の終わり、桜の蕾がまだ固く閉じた夜のことだった。

宮本奈緒は、父の遺品を整理しながら、古いアルバムを膝に抱えていた。築四十年の実家、六畳の和室。父が最後まで眠っていた部屋には、まだ彼の体温が残っているような気がした。

「なぜ死んだの」

誰に問うでもなく、奈緒はつぶやいた。六十二歳。癌の告知から八ヶ月。あまりに早かった。

アルバムの中の父は若く、笑っていた。結婚式の日、奈緒が生まれた日、七五三、入学式——時間の積み重ねがそこにあった。だが今、その積み重ねはすべて過去になった。ページをめくるたびに、奈緒の胸に重い石が落ちていくようだった。

三十四歳。仕事は広告代理店のコピーライター。未婚。東京のワンルームで、締め切りと孤独を抱えて生きてきた。父が倒れたと聞いてから、毎週末この家に帰り続けた八ヶ月間。その時間が終わった今、奈緒には何も残っていないように思えた。

仏壇の前に座り、線香の煙が細く立ち上るのを眺める。煙は部屋の空気に溶け、やがて消えた。

いつか消えゆく——

その言葉が、どこからか胸に浮かんだ。


第二章 星の話

翌日、奈緒は父の書斎を片付けていた。

父は高校の理科教師だった。定年退職後も、天体観測を趣味にして、古い望遠鏡を磨いていた。書棚には宇宙に関する本が並び、手書きのノートが何冊も積まれていた。

一冊のノートを開くと、父の几帳面な文字が並んでいた。

「宇宙の年齢は百三十八億年。地球は四十六億年。人類の歴史はたった三十万年。ならば、一人の人間の人生など、宇宙から見れば瞬きにも満たない。しかしその瞬きの中に、なぜこれほどの喜びと悲しみが詰め込まれているのだろう」

その横に、小さな字で付け加えられていた。

「きっと、それが意味なのだ」

奈緒はノートを胸に押しつけた。目の奥が熱くなる。泣くまいと思っていたのに、涙は勝手に流れた。

夕方、縁側に出ると、空が茜色に染まっていた。父とよくここに座って、夕日を見た。父はいつも言っていた。「奈緒、空を見ろ。人間の悩みなんて、あの雲の一粒より小さい」

当時の奈緒はその言葉が嫌いだった。悩みを軽く扱われているような気がして。でも今は——

縁側の端に、見知らぬ老婆が座っていた。

奈緒は驚いて立ち上がった。「あの、どちら様ですか」

老婆はゆっくり振り返った。七十代か八十代か、判断がつかない。白髪を丁寧に結い、薄青の着物を着ていた。目が、異様に穏やかだった。

「ああ、驚かせてごめんなさいね。昔、この家の近くに住んでいたの。宮本先生には随分と世話になったから、お別れを言いに来たんだけど——通りかかったら縁側が開いていて、つい」

老婆の名前は、ハルコと言った。

「先生はね、面白いことを言っていたわよ」ハルコは空を見上げながら言った。「私たちはみんな、星から来た旅人だって。地球に降り立って、ちょっとの間、迷子になって、それでまた帰っていくって」

奈緒は黙って聞いた。

「迷子って——」

「この星はね、そういうレベルの星なのよ」ハルコは微笑んだ。「迷子になるために来る星。痛い思いをして、泣いて、それで少しだけ魂が育つ。先生もそう言っていたわ。癌になって、怖かったでしょうけど——でも最後に先生は笑っていたって、看護師さんから聞いたわよ」

奈緒は息を呑んだ。

「父が——笑って?」

「ええ。何かを思い出したような顔で、って」

夕日が沈んでいった。空に最初の星が、一粒、輝いた。


第三章 個人の歴史

その夜、奈緒は眠れなかった。

ハルコの言葉が頭の中をぐるぐると回った。「迷子になるために来る星」。馬鹿げていると思いたかった。でも、なぜか笑い飛ばせなかった。

深夜二時、奈緒はスマートフォンでメモを開いた。コピーライターの習慣で、心が乱れると言葉を書く。

「私の個人の歴史とは何か」

書き始めたら止まらなかった。

両親の元に生まれ、勉強が苦手で、友達に馴染めなくて、高校で初めて文章の才能を褒められ、大学で広告を学び、就職し、恋愛に失敗し、仕事に逃げ、父が病に倒れ——

三十四年分の記憶が、文字になって流れ出した。

書いていくうちに、奈緒は気がついた。

自分の歴史は、痛みと逃避と小さな喜びの繰り返しだった。だが、その一つひとつが、今の自分を作っていた。失恋があったから人の痛みがわかるコピーが書けた。父の病があったから、初めて本当の意味で父と向き合えた。

これが、足跡なのかもしれない。

迷子の足跡。正しい道を知らないまま、それでも歩いてきた証。

夜明けごろ、奈緒は父のノートをもう一度開いた。後ろの方のページに、日付のない短い走り書きがあった。

「奈緒へ。お前が生まれた日、俺は初めて魂というものを信じた。こんなに小さな体に、こんなにも大きなものが宿っていると思ったから。迷子になってもいい。迷いながら進むのが、この星の生き方だ。父より」

奈緒は声を上げて泣いた。

父はわかっていたのだ。すべてを。


挿絵

第四章 降り立った魂

葬儀から一ヶ月後、奈緒は東京に戻った。

仕事は溜まっていた。締め切りも山積みだった。だが、何かが変わっていた。

以前の奈緒は、締め切りのたびに胃が痛み、クライアントの顔色ばかり気にして、自分の書きたいことを押し込めていた。

ある日、新しい案件が来た。老人ホームのパンフレットのコピー。予算は低く、地味な仕事で、チームの誰も乗り気ではなかった。

奈緒は引き受けた。

取材に行くと、入居している一人の老女と話した。九十二歳。戦争を生き抜き、夫を看取り、子どもたちより長生きしてしまったと笑う女性だった。

「長く生きると何がわかりますか」奈緒は聞いた。

老女はしばらく考えて、言った。

「悲しいことはね、みんないつか薄れるのよ。でも、誰かを愛した気持ちだけは——消えないの。もう会えない人への愛は、消えないの」

奈緒はペンを止めた。

今世だけの感情は、いつか消えゆく運命。

でも——愛は?

愛もいつか消えるのか。それとも、魂の奥深くに刻まれたまま、次の世界へ持っていくものなのか。

奈緒にはわからなかった。でも、消えてほしくないと思った。父への愛も、この老女の夫への愛も、誰かを想う気持ちのすべてが、宇宙のどこかに残り続けるなら——

それなら、迷子であることも悪くない。

パンフレットのコピーを書いた。タイトルは「降り立った魂たちの、最後の宿」。

上司は首を傾げた。「スピリチュアルすぎないか」

でも老人ホームの担当者は泣いた。「これが一番、私たちの想いに近い」


第五章 高みへ

四月。桜が満開になった週末、奈緒は再び実家へ戻った。

今度は片付けのためではなく、ただ父の家に居たくて。

庭に出ると、父が丹精していた梅の木が、すでに青い実をつけ始めていた。命は続いている。

縁側に座り、父のノートと望遠鏡を膝に置いて、空を見上げた。

昼間の空に星は見えない。でも奈緒は知っていた。昼間でも星はそこにある。見えないだけで、消えているわけではない。

父もそうだと、今は思える。

見えないだけで、どこかにいる。この星の迷子旅を終えて、高みへ帰っていった。

奈緒は手帳を開き、言葉を書いた。コピーではなく、ただ自分のために。

私はこの星の迷子だった。これからも迷子かもしれない。でも、迷子にしか見えない景色がある。転んだ者にしか拾えない石がある。父がそれを教えてくれた。

私の個人の歴史は、迷子の足跡だ。でもその足跡は、確かにここにある。

次に泣きたくなったら、空を見よう。悲しみは本物だ。でも、それより大きな何かも、本物だ。

風が吹いた。梅の木の若葉が揺れた。

どこか遠くで、父が笑っているような気がした。


エピローグ

それから奈緒は、少しずつ変わった。

劇的な変化ではない。相変わらず締め切りに追われ、恋愛はうまくいかず、時々ひどく落ち込む日もある。

でも以前と違うのは——落ちた後、立ち上がれるようになったことだ。

悲しみを嘆き続けることをやめたわけではない。ただ、悲しみの底に、何か揺るぎないものがあると知った。

魂は傷つく。この星はそのための星だから。

でも傷ついた魂は、磨かれていく。

ある夜、奈緒は父のノートの最後のページに、こう書き加えた。

「お父さん、私はまだ迷子です。でも、高みを目指して歩いています」

ノートを閉じて、窓の外を見る。東京の空に、一つ、星が光っていた。

「個人の歴史」とは、「地球の迷子」の足跡——

その足跡は、消えない。

魂が次の旅に出ても、歩いた道は宇宙に刻まれ、いつか誰かの光になる。

奈緒は静かに目を閉じた。

遠くで、桜が一枚、夜風に舞い散った。


「降り立った魂」よ、癒しを受け取れ。 そして、高みを目指して進め。 この星での迷子の日々が、いつか、あなたを星にする。

エピローグ

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