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鏡の中の自分

電車の窓に映る自分

朝の通勤電車で、ふと窓ガラスに映る自分の顔を見つめていた。三十二歳、中堅商社の営業部に勤める私は、毎日同じ時間に同じ電車に乗り、同じ席に座る。そんな日常の中で、最近妙なことを考えるようになった。

「この顔を見ている『私』は、果たして誰なのだろう」

窓に映る顔は確かに私のものだ。しかし、その顔を客観的に観察している意識は、一体何者なのか。理性というものが、自分を外側から眺めることを可能にしているのだと気づいた時、私は軽いめまいを覚えた。


会社に着くと、いつものように同僚たちとの朝の挨拶が始まる。「おはようございます」「今日も一日よろしくお願いします」。決まり文句を交わしながら、私はふと思った。彼らは私をどう見ているのだろうか。

子供の頃は、そんなことを考えもしなかった。ただ自分の感情のままに行動し、泣きたい時は泣き、笑いたい時は笑っていた。他人の視線など気にもかけず、ありのままに生きていた。

しかし、いつからだろうか。自我というものが芽生え、他人から見られている自分を意識するようになった。それは成長の証なのかもしれないが、同時に何かを失ったような気もする。


午後の会議で、部長が新しいプロジェクトについて説明していた。私は真剣に聞いているふりをしながら、心の中では別のことを考えていた。この会議室にいる十人の人間は、それぞれが異なる視点で私を見ている。真面目な部下、頼りになる同僚、時には競争相手として。

社会で生きるということは、こうした複数の視線の中で自分を演じ分けることなのだと理解した。家では夫として、父として。会社では部下として、時には上司として。友人の前では気の置けない仲間として。

自我があるからこそ、これらの役割を使い分けることができる。しかし同時に、本当の自分というものが見えなくなってしまった。どの顔が本当の私なのか、分からなくなってしまった。

公園のベンチで夕焼けを見つめる

帰宅途中、公園のベンチに座って空を見上げた。夕焼けが美しく、思わず深呼吸をした。その瞬間、久しぶりに何も考えずに、ただ存在している自分を感じた。

ありのままに生きるということは、こういうことなのかもしれない。他人の視線を気にせず、社会的な役割を忘れて、ただ自分であること。しかし、現実に戻れば、また明日も自我を携えて社会の中で生きていかなければならない。

自我は邪魔者なのだろうか。それとも、人間として生きるために不可欠なものなのだろうか。

温かな家庭の灯り

家に帰ると、妻が「お疲れさま」と迎えてくれた。娘が宿題をしながら「お帰りなさい」と言ってくれた。この瞬間、私は夫であり父である。そして、それは演技ではなく、確かに私の一部なのだと感じた。

自我があるからこそ、愛する人たちとの関係を築くことができる。相手の気持ちを理解し、自分の行動が与える影響を考えることができる。それは確かに人間らしい能力だった。


夜、ベッドに横になりながら考えた。何のために人間になったのか。この問いに明確な答えはないかもしれない。しかし、自我を持ち、理性で自分を客観視し、他者との関係の中で生きることこそが、人間の本質なのではないだろうか。

完璧な答えなど存在しない。ただ、この矛盾を抱えながら生きていくことが、人間であることの証なのかもしれない。自我と理性、社会性と本来の自分。そのすべてを受け入れて、今日もまた新しい一日を迎えよう。

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